前へ | 八幡神社 はちまんじんじゃ |
建久3年源頼朝が奥州下向に当り諸神仏の縁起改めさせたその写によれば、坂上田村将軍蝦夷地方征討の際、山北秋田の神主を召し祈願させ、平定の功により、大同2年宮林正八幡宮を建て、その後、天喜4年源頼義、義家の安倍追討に当り神主兵を募り討伐を助け、功により1万2千刈の社領を受け、康平6年当国鎮護の為藤原供稔を大工奉行とし、15間四面の地に社殿を建立、翌7年竣工し大祭を行うとある。
その後の盛衰は不詳であるが、明和2年に至り、別当弘覚院宥伝の代に社殿再建、寛政元年福応山万億寺八幡宮一宇建立の棟札があり、明治初年地租改正時の境内隣接地1町1反19歩を有していたが、氏子に分割現在に縮小す。 明治6年村社、同30年神殿・拝殿を改築、同40年内小友村大字内小友を区域とする神饌幣帛料供進指定村社となる。 同41年11月字伊勢堂無格社神明社と合併、拝殿脇に控所6坪増築し、昭和6年幣殿3坪増築す。 |
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