前へ | 稲荷神社 いなりじんじゃ |
小笠原大和守由利十二頭の旗頭として足利将軍の命を奉じ信州より応仁元年旧9月12日下向当所浦浜に着船、同時に守護神稲荷大明神を古来より正教院(現稲本家)がこの地に奉斎していた七福神の神殿に鎮祭せられ爾後芹田村の鎮守として奉祀す。
尚同日を以て例祭日と定めた。 その後大和守は楯井地村の破却の城を修築し居城としていたが、翌年山根城へ転じて仁賀保領中を統治する。 姓を仁賀保と改め当稲荷大明神に対する信心殊の外篤く鰐口の寄進あり、又兵庫守も前立白狐2疋鰐口等の寄進があって、仁賀保家歴代の祈願所となっている。 このように、上は地頭より下は一般庶民に至る迄その利福に授からんとし遠近より参拝する者が多かった。 慶応4年8月5日戊辰の役の兵火により社殿焼失翌明治2年再建、明治6年村社に列格。 明治41年無格社神明社、無格社諏訪神社、無格社三嶽神社、稲荷神社境内社手置帆負神社を合祀す。 昭和29年神庫新築、敷地は稲本増衛氏の寄贈宅地17坪1合2勺。 |
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