前へ | 保食神社 ほしょくじんじゃ |
「河辺郡大観」によれば、社殿は元の龍宮山海道寺観音堂を再建したものという。
雲崎城主小野築後守草創の観音堂は、始め大森山の嶺に有り、白印観音菩薩を祀った。 後大森山崩壊するや社殿を別山に移し大明神山と号した。 雲崎城落城後祭祀を営むもの無く廃社となったが、或年海岸にいた漁民の網の中に光明燦爛たる尊体を発見したので、恐る恐るこれを手に取ってみれば大悲観音像であった。 村民は奇異の感に打たれ、小野氏の旧跡を継ぎ一宇を建立しその尊体を本尊とし龍宮山(龍宮より漂着し給う縁をかたどる)海道寺(塩曳潟より海に通じた伝説よりとりたるものか)観音堂と号し一村挙って尊崇したが霊験甚だあらたかであった。 その後本尊は男鹿の岬、また久保田の東福寺に移り同寺所蔵の霊像はこれと目されている。 その後社堂を瀧ノ下に遷座し、久しく一郷の鎮守と崇め祭った。 天保8年中火災に遭い社堂も灰燼に帰した。 その際再建の地をめぐり、争いがおこったが、時の郡吏淀川氏、郷の者にト籤させ現在の中村の地に遷座し、これから一郷相和して社宇を新築し昔の如く崇敬したという。 |
トップページへ |