前へ | 八幡神社 はちまんじんじゃ |
往古中汐越村構成なってより産土神として正安2庚子年大汐越八幡社の分霊を勧請し、西村の浄地を卜(うらない)して一宇を造営したのを創始とす。
爾来年と共に繁栄に趣き、領主の篤き崇敬を受けていたが、享保9年辰3月下旬類焼、以下3度の類焼に遭い社殿神宝悉く焼失す。 現在の社殿は天保年中の再建である。 又古伝によれば、抑も象潟は八幡菩薩の聖蹟として伝えられている。 古伝を案ずるに神功皇后が三韓を鎮撫され凱旋の砌、海上大時化に遭い、一団の軍船象潟の沖合に漂着され、その時土地の首長小浜の宿祢が早速引船を差向け恭しく奉迎申しあげ帆手掛島の地を卜(うらない)して仮の御殿を造営し奉り暫く御滞宮を願っていた。 ところが皇后にはあたかも臨月におわしましたので畏くも玉の如き王子を安らかに産せ給うたと伝えられている。 この皇子こそ雅名を誉田別尊即ち後の応神天皇である。 皇后は御滞宮中篤く蚶方明神を崇敬あそばされ、その神助を祈っておられたので、筑紫へ還御に際し特に八津島の地方25丁余を御下賜になった。 由来着御の地には船着八幡、御休息の地には腰掛八幡、遺品の帯石を御神体とする若宮八幡、竜衣の濡れたのを掛けさせ給うた松の樹を記念する袖掛八幡、所請象潟の四所八幡であり、現今それぞれ神事を執り行っている。 |
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