前へ | 神明社 しんめいしゃ |
現神明社所在地は、明治の神仏分離以前は釈迦堂のあった土地で、土地に残されている「初七日山釈迦堂略縁起」によれば、神社の草創を鎌倉時代に求めることができる。
執権、北条時頼が剃髪後、民情視察の為、廻国の途次、津軽藤崎に来た時、鎌倉に残して来た愛妾、唐糸の姿を見かける。 唐糸は無実の罪で流されて来ていたのであった。 唐糸は己の姿を恥じ、自ら入水して果てる。 唐糸の初七日に時頼はちょうど釈迦内の地に来た。 その供養のために釈迦如来像一体を刻み、この地に残した。 釈迦内の地名はこの釈迦像に由来するという。 往古風萩村といい、また日也迦村とも唱えた。 この像をおさめた釈迦堂の背後の台地は、中世末、浅利氏の女性の居った母衣飾(ホロカザリ)館で、江戸期、菅江真澄の「にえのしがらみ」に「うちのおほん社」があったと見える。 明治に釈迦如来像を村内の寺に移したあとに、この台地にあったお伊勢様を遷座しそれに、村人たちの尊崇を集めていた釈迦像のかわりとして、その源にさかのぼって名を新に唐糸霊神と付して合せ祀り、神社名を神明社として現在に至っている。 現社殿は昭和55年8月に改築。 |
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