前へ | 日枝神社 ひえじんじゃ 通称:山王宮 |
昔平沢館の城主由理仲八郎の末孫政春が、山形飽海から由理5万8千石の籏頭となり、西目浜館に居城した。
その後栗山館の城主鳥海弥三郎と不和になり、その攻勢に耐えず、やむなく居城を浜館からこの鳴瀬台に移し、この地の地相を見て山王権現をまつり、埋田谷地を開田するなどして食糧の確保に努めた。 その後さらに弥三郎の襲撃を受けたが、鳴瀬台は三方見張りがよくきくが、西風強く守るに矢風を受けるので、やむなく正和4年奉行免根代館に居を替えた。 それが執拗にも正中元年3月23日更に急襲を受け、根代館は落城、翌24日政春は多くの家臣と共に自害して果てた。 自刃にあたって政春は、重臣村上帯刀を呼び、由理家代々の宝刀(藤原秀衝からの拝領という)を授け、若君2人(丁刃丸、吉雄丸)の養育と由理家再興を頼み、その添役として伊藤四郎久宗らを加え、一行16名は闇にまぎれて根代館を脱出した。 この重大使命を受けた一行は途中鳴瀬台に足をとどめ、かつての由理家の氏神山王権現にぬかづき、男女16名はおのおのが「タブサ」を切って由理家の武運長久を祈願した。 「タブサ」は錦の袋に入れて、今でも日枝神社の社宝として神殿ふかく安置されてある。 この山王権現を祀ったところを「山王堂野」と呼んだが、領主なきあとは山王堂野から現地に移し崇敬社とした。 |
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