| 前へ | 八幡神社 はちまんじんじゃ |

| 秋田(安東)氏の家臣山田喜六の居館(山田城=極楽館)に鎮座していた八幡社であったが、天正16年頃から始まったかと思われる湊騒動(湊合戦とも)で桧山の安東と共に、山田喜六が敗れ、社も荒廃した。
神田があったことは竜毛に八幡田という字名が存することでわかる。 この後、山田氏の家臣であった金子氏の子孫をはじめ大木・石川・伊藤・児玉以上6家の崇敬があって八幡館(山田館・喜方館)から享保12年11月現在地に遷し、八幡宮と称していた。 佐竹藩に代ってから地頭山方民部より古来の由緒を以て祭祀料や社殿修改築資金の寄進があったが、桃園天皇の宝暦年間になって山方氏の寄進は絶えてしまった。 現在の社殿は大正6年3月改築工事に着手、翌年4月に竣工している。 <配祀 石川理紀之助翁について> 時に翁は66歳。 大正4年9月8日享年71歳で帰幽、暫く時経てから相殿に配祀した。 昭和16年5月例祭時に木像盗難を発見、現在の木像は花岡泰雲作。 昭和47年9月7日霊璽として奉拝、相殿に安置した。 |
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