前へ | 高寺山神社 たかてらやまじんじゃ |
高寺山の絶嶺に、養老6年代に千手観音を安置すとの記録があり、その開祖は不詳であるが寺号を高寺山忠源寺と称していた。菅江真澄の「月の出羽路」では、開祖を行基としているが信じ難い、また寺号を高寺山福王寺と称しているが出典は不明である。
頂上にお堂があったときは、難波平治満友という館主の礼拝堂であり、後年には難波の館跡に遷座した。 御本尊は紫銅の7寸余のお像で、江戸末期盗難にあったと伝えられる。 また、後代の記録では、六郷城主二階堂忠頼が八千刈の稲田を寄付したとある。 その後の経過は不詳。明治維新の神仏分離により、本社を神明社に、観音堂を境内社とし高寺神社とした、明治40年1月高寺神社火災のため、同41年12月両社を合併の上社殿を新築し、無格社高寺山神社と改称す。 なお、いつの頃からか、馬頭観音とされて近郷近在の競馬主、馬愛好者による馬連れの参拝が戦前まで続いていた。 |
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