前へ | 釣潟神社 つりかたじんじゃ |
仁寿年中(851〜855)に慈覚大師が奥羽地方を巡歴した折、八重掘山(現在の幟山)の山頂に五色の雲がたなびいていたので、そこに登ってみると聖観世音菩薩が現れ、「なんじ、ここに一宇を創立してわれを供養すれば、長く末世の衆生を救わん」と告げた。
そこで慈覚大師は笈の中から沈水の香木を取り出して聖観世音菩薩を刻み、草堂を結んでこの尊像を祀ったという。 さらに保安三年(1122)には仏師が新たに3尺余の観世音を刻み、その胎内に慈覚大師作の像を納めたといわれる。 明治時代以前は「円通山宏大寺」と呼ばれる修験道場であり、桧山・霧山城を拠点に勢力を張った安東氏、特に6代愛季(ちかすえ)公の厚い庇護を受けていた。 この時の様子をのちに、菅江真澄が「かすむ月星」(1806)のなかでこう記している。 『野原に出て谷におり、たどっていくと観世音の堂がある。円通山の額は月舟和尚が書いたものである。宏大寺という額がすすけていてだれの書いたものかわからない。城之介実季がまだ幼少のとき重病にかかられたのを、父愛季が日ごろ念じている観世音に深く願いをたてたところ、病も軽くなり命をとりとめたという。住んでいた矢堀の館から、この堂に三十三石の稲を寄進なさった。それでいまも三十三年を経るごとに御開帳をして拝し…云々』とある。 明治5年、神仏分離令に伴い村社に列し、山神社とする。 同43年、近くの4社を合祀して釣潟神社と改称し、大正2年、現在地に移転する。 (宝物)愛季公自筆の絵馬「親子馬渡河之図」(市文化財)には元亀3年(1572)の墨銘があり、奉納年の書かれている絵馬の中では、県内で最も古いものといわれている。 |
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