前へ | 石動神社 いするぎじんじゃ |
東山文庫の久保田名所記の宝永6年の記録に『舟木久助といふ有徳の者あり、ある夜の夢に深山の大石そば立ち、しんしんとしたる所に一宇あり、金銀珠玉を散りばめ、荘厳、口にし難き中に、老僧一人来たりて、汝、われを待つこと、まことに久し、祈る所、誠あらば一宇を建てて崇むべし、氏神となりて汝の子孫を守るべし、我は、これ能登の国の霊神なりと、白龍となりて飛び去り給ふ。夢さめて久助は、能登の国の霊神とは石動大明神の御事なりと思ひなして、一宇を建てて勧請し奉れり。太平荘谷内村広面郷に勧請は正応四年辛卯十一月五日で宝永六年己丑迄四百十七年となり、年毎三月五日恒例の祭礼を行ひ、当社別当舟木氏代々これを務む』とある。
それまで舟木氏の住家と土蔵の間にあったが、承応元年9月5日に、郷中の水上で土地高燥で立派な所として、現在の所に神殿を建て遷座された。 文久元年6月5日、腐朽甚しくなり、再建されたのが現在の社殿である。 明治12年8月10日村社に列せられ、明治43年に村内の神明社と稲荷神社を合祀、昭和4年に神饌幣帛料供進神社に指定された。 |
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