前へ | 熊野神社 くまのじんじゃ |
文禄4年(1595)三浦遠江守が観請し、宝伝寺と称した。
明治3年の神仏分離令により、村社熊野神社(祭神・建速素盞男神)となる。 同43年4月字向山下無格社澤口神社(受持乃神)、同愛宕神社(迦具土神)、字荒川無格社神明社(天照大神)、字釜谷無格社釜谷神社(大山祇命)、字白石澤無格社鳴澤神社(武甕槌乃神)を合併する。 本殿は昭和15年12月新築、幣殿・拝殿は昭和4年5月新築したものである。 口伝によると、昔の大沢村は現在地より南東に約1km離れた屋敷田といわれる所にあったが、応和8年・寛永9年(1632)の度重なる白髪洪水で大部分の家屋が流失したので、今後の生活に不安をおぼえた村人たちは、現在の蕨台の地に村を移転したという。 しかし大沢村の鎮守として祀っている神明社が、村の下方に鎮座することになってしまうのは良くないことであるとし、村の上方となる荒川の地に新たに神明社を建立した。 今迄の神明社は石岡五郎右衛門の代に石岡家の氏神として申し受けた。(ごえんどこ、と呼びまつられている) その後村が大きくなったので、現在の嘉平岱に遷座したという。 ご神体(弥陀・薬師・観音の御三体)は天保弘化の間に盗難にあってしまったが、嘉永2年(1849)石岡孫太郎が江戸にて求め、寄付したものである。 |
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