前へ | 八幡神社 はちまんじんじゃ |
明治12年の神社明細帳に次のようにある。
『仁寿二年勧請、幡宮祖先、天羽槌雄命末系倭文連長幡少納言幸政の弟を嗣となす。その子行貞大和国より罷下り、八幡の尊像を彫刻し一宇の祠を草創し、八田大倉村を切り開き近村十五ヶ村の鎮守祈願所となる。天暦年中八幡神社の勅官を請け、八幡山福田寺不動院と寺山号を定める。長久元年、秋田城之介より社領寄付、その後佐竹義宣巡覧の節、参詣され初穂として金子百疋目、造営助成として銀一貫目並びに当家紋付の灯籠二基神納に預る。』 また、元禄4年八幡宮・舞殿・鳥居建立の記録があり、天保3年に再建の棟札がある。 明治6年郷社となり、同41年1月以降、郡費をもって神饌幣帛料を供進する神社に指定される。 神宝として江戸時代以前に遡るとされ町指定文化財の獅子頭がある。 記録では大永2年に納め入れたとされている。 |
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