前へ | 霧山天神宮 きりやまてんじんぐう |
御神体は菅公自ら鏡に向かって描いた自画像と伝えられ鏡天神とも称す。
桧山城主多賀谷氏代々の守護神として奉祀され、毎年京都北野天満宮より届けられる連歌懐紙を正月10日夜、神前で執り行う連歌披講の祭事は、明治初期に至る270余年間続いた。 連歌懐紙は、最も古い万治2年から明治5年までのもの77張、香炉、文台、硯箱等天神宮の社宝(県文化財指定)として保存されている。 明治維新という変革と時代の流れに逆らいきれず、御神体、社宝がわけあって多賀谷家より転々と所有者がかわったが、遷る先々で奇怪な出来事、災いがあったと古老達の言い伝えがあり、ある所に保管されている事を知った桧山町民有志で天神宮奉祀会を結成、昭和23年5月1日、天神ゆかりの地、桧山へ約70年を経て奉遷される。 これより民間信仰の対象となり天神宮にまつわる伝記、奇々怪々な言い伝えは地元はもとより地方にも知れわたり、霊験あらたかな神、学問の神と慕われ、崇敬者各位の協賛により昭和27年元愛宕神社跡地に神殿建設、社名を霧山天神宮と奉称する。 その後、参道を石階段に整備、収蔵庫建設、昭和60年念願の拝殿、及び神殿拝殿を結ぶ、橋ノ間を建設する。 |
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