前へ | 神明社 しんめいしゃ |
由緒は詳かではないが、往古延暦16年桓武天皇の御宇田村麻呂将軍東征のおり、男鹿方面より漸次柏御処(榊村字柏子所)に陣を敷き、時の首長學というものが、大内裏の構をなし王化に従わないので、悉く平定した後、元来同村は海浜の地であるので、漁業を営むのにまことに良い処であると、王化に霑う良民達が、諸方より来集し、蝦夷共の大内裏の構をつくったということで、字義に基づき、当時は大裏田村と称えていたが、後に大内田村と改称したことが伝わってきている。
その後、時の良民共新たに一の神明社の社を建立し、祈祷を行っていたが、当時奉斎していた古びた神像並びに法螺貝一個は存在している。 爾後慶長年中南部の浪士佐藤氏当大内田旧渡辺氏方より当社の別当となり、近年に至るまで14代の間、永く当社の神職であった。 明治4年改めて神祇官より村社としての棟札を下付されている。 この時まで神社は内陣のみであったのを、明治24年春同村社氏子総代小玉彦三郎、芳賀栄司の二氏八森方面漫遊の途路所々の神社に参拝し諸社の構造の荘厳であるのに感じ、かねて神の尊厳を保つのは、社殿の構造の良否に拠るところと、帰省後非常の尽力を以て村内氏子協議員を選定し、同年9月社宇を建立し正遷宮を執行する。 |
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