前へ | 三哲神社 さんてつじんじゃ |
当社の祭神は千葉上総介秀胤、又の名は下戸前常政とも言い南部領下戸前に居住して下戸前を姓としていた。
幼少から物事のおぼえが良く、多くを知り、考えの鋭い子であった。 若い時江戸に出て学問に励み文学並に武芸には特に優れていた。 又医術は人々を救った。 武芸、医術、文学は抜群で医名を三哲、学号を玄秀と唱えていたので当時の人から三哲と称されていた。 寛文6年十二所に来たりて武芸を教え、医業を開き貧民を救い、生神の如く崇敬されていたが当時塩谷城代の施政悪しきを心よしとせず上納米を貧民に施したのでその不法をとがめられ、三哲の棒術の弟子である福助をはじめ3名の手にかかり捕われ、斬に処されたがその後町民等が相謀り、生前三哲が好んで登り、又死する時はこの地に葬れと言っていた中岱(現在地)に神として祀り、三哲権現として祭事を執行し、年々その威徳を慕い、県内外から参詣者が増加している。 |
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