前へ | 十二所神明社 じゅうにしょしんめいしゃ 通称:十二天さま |
奥州藤原氏が東北地方一帯を統治した、嘉応から文治年間に至る12世紀の後期〈平安末期)、時の鎮守府将軍藤原秀衡の一族、藤原肥後が当地方支配のため藤原岱に居城したが、その折守護神として「十二天神社」が創建されたものと古くから伝えられてきました。 爾来、十二所は戦国の世を経て幕末に至るまで浅利、秋田、佐竹各氏の支配を受けるところとなりましたが、「十二天神社」は、その時々の支配者の家臣により内町(武家方)鎮守として祭祀されてきました。 一方、天正年中(1573〜91)源内沢にあったと伝えられる「伊勢神社」は外町(町方)鎮守として祀られてきましたが、元和元年(1615)十二所代官として任ぜられた佐竹氏家臣塩谷伯耆守(しおのやほうきのかみ)が翌2年十二所城を移築し、同時に侍屋敷の移住を行った事により、上町下川端に遷宮されました。 その後、延宝7年(1679)3月22日の十二所大火により社殿類焼し、全町の屋敷割直しに伴って十二天社東方の並山に遷されましたが、更に寛政6年(1794)に至り下新町の西方山麓の大森岱に遷宮、明治43年(1910)まで鎮座されました。 明治維新後俸禄を失った多くの旧藩士は、生活の糧を求めて他出が相次ぎ「十二天神社」の維持運営が次第に困難となり明治43年大森岱に鎮座せる「伊勢神社」及び十二所地域の20社を「十二天社」に合祀し、神饌幣帛料供進神社の指定を受け「村社神明社」と改稱されました。 第二次世界大戦を経て昭和21年10月に「宗教法人 十二所神明社」として発足し今日に至っております。 |
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