前へ | 二井田八幡神社 にいだはちまんじんじゃ 通称:泰衡八幡 |
創立年代不詳。
当地は、奥州平泉4代終局の地であって次のような言い伝えがある。 当神社は元、諏訪八幡と称していたが、後、泰衡八幡となった。 その訳は、文治5年に、源頼朝の勢に追われた藤原泰衡が、累代の臣である河田次郎行文を頼って、行文が領知する此処二井田贄の柵に落ちてきたが、かえって行文に害され、その死骸は、錦の袍と共に、出向の地に葬られた。 村人は哀れみ、自然石を建ててひそかにその霊を祀ってきたが、後年、村中に怪異があり、村人はそれを泰衡の祟りとして、慰霊のために、出向の霊地に一宇を建て、錦堂と称して公然と祭祀し(現・錦神社)、又鎮守社を諏訪八幡と称するのをやめて、泰衡八幡として尊崇したところ、怪異はやんで村は栄えたということである。 明治6年、村社に列した、同40年、神饌幣帛料供進神社に指定された。 同43年、同村字高村神明社を合併した。 昭和35年、社名を二井田八幡神社に改めた。 |
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