前へ | 熊野神社 くまのじんじゃ |
当神社の草創は第四十代天武天皇の御代、白鳳元年壬申の7月7日役の小角、産子の泣き声を聞いて泣子沢と名づけ、熊野神社を奉安する。
現在鳴見沢という。 峯の内に穴二つあり、日像、月像を備え、明永山と名づけた。 弘安9年丙戌の8月一遍上人巡国のとき、役の行者の仙跡を尋ねて再建。 亦秋田城之介成綱の代本殿7間四面、拝殿12間に建号を明永山神宮寺、遍照院と言い三十六院の坊司があった。 観応元年足利家より秋田城之介泰長をもって、御朱印、御書判御証文に、吉田、飯詰、八幡三ヶ所より知行三千石拝領、雄勝、平鹿、仙北へ熊野牛王配札、舞獅子、回村の証文、三十六坊へ拝領。 天文21年6月小野寺合戦の時兵火にて神社、僧坊ことごとく焼失。 延宝8年明永山に移転再建。 寛政12年元鳴見沢に移転。 天保11年丸山(現在地)に移転。 佐竹時代に入ってからも、従前通り配札、舞獅子、回村の永久御免の許可があった。 明治6年村社に列した。 |
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