前へ | 諏訪神社 すわじんじゃ |
神社誌によれば『勧請不詳ナレ共古老ノ伝記ニ豊島兵衛次郎盛光源平ノ乱ノ功ニ依リ文治二年信濃国諏訪郡ニ居住軍神武御名方大神ヲ崇拝永禄年中甲越争乱ニテ出羽国由利郡久保田ニ来リ大神ヲ移遷鎮座セシ儀ニテ別段書類トテハ無ク明治六年九月三日村社ニ列セラル』とある。
神社社殿の造改築は現存する書類によれば、氏子の強い信仰と尊い浄財の寄進によって数多く行われているが、特に文政13年7月25日、明治21年7月27日、そして昭和11年12月10日の3回は大事業であった記録が残されている。 近隣住民の神社の崇敬は特に篤く、他集落の無格社であり信徒少ない、大水口地区の大山祗大神・東中沢地区の三島大神・飯沢地区の宮比大神・五十土地区の白鳥・柴倉両神社の5社が明治43年8月27日各地区の強い願いによって合祀され、次いで大正2年8月27日には小菅野地区の菅原柴倉両神社も氏子の強い願いにより合祀されたが、昭和23年4月それぞれの地区の希望により合祀を解き各地区に分祀される。 昭和22、23両年に亘る子吉川大洪水による久保田正満堤防の決潰と美田の流失埋没数町歩に及び、地区存亡の危機に当っては神社社木売却資金などで災害復旧に大きく貢献された。 |
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