前へ | 新山神社 にいやまじんじゃ |
安永9年6月、10代大越家重学院良盛祭主のとき新山神社火災にあい古い記録のすべてを焼失してしまった。
当時古老の語るところによれば、亀山天皇の文永年中領主の武運長久五穀豊穣祈願のため勧請されたといい伝えられている。 その後由利仲八郎政春が、南福田の鳴瀬台に西目浜館から移住したとき、黒沢の人家は既に集落化していたといわれ、政春は年々3月20日に参拝があり、神社所有田地の内3畝4歩は由理家の寄進田といわれ、その恩顧をしのび3月20日を新山神社の祭日とされてきたという。 そのうち政春は鳴瀬台は地の利を得ないとし、奉行免根代館に移ったが仁賀保栗山城主鳥海弥三郎との不和を生じ、正中元年その急襲にあい自害のやむなきにいたった。 このとき君命により村上帯刀ほか家臣16名(18名ともある)は若君を奉じて根代館から落ちのびることになった。 その家臣の一人畠山右京なる者が一行とともに南福田山王権現社で髪の毛を切り武運長久を祈願してここを立ち去った。 しかし敵の追跡はげしく味方はあるいは討たれあるいは傷つき消息不明におち入った。 畠山右京はよんどころなく当地に足をとどめ、神づとめにいたったという。 天明元年旧社地応理から今の山本の現地遷宮にいたった。 明治43年8月2日東鮎川山崎大山祇神社・沢口保食神社を合祀して村社に列した。 |
トップページへ |