前へ | 神明社 しんめいしゃ |
境内地の字地は中山と呼称するが、境内後方の傾斜地を含め館山という。
戦国末まで飯塚越前守の居館があったからで、今、末社として祀る三輪社が館の守護神であり、村の鎮守としても元禄2年8月まで村人の尊崇が篤かった。 神明社観音堂の創建は、元禄2年5月、八郎潟(大潟)沖合の水底より発見した千手観音を浜飯塚観音尻に堂社を設け祀ったことに始まる。 観音堂は鞘堂である。 内部に祠堂を安置する。 後に岡飯塚の水神端へ遷祀、更に享保19年現在地に祀る。 大正14年観音堂修築の際、屋梁に白狐と鹿のミイラが蔵されているのを発見、千手観音像と共に安置し現在に至っている。 堂社に「享保19年改築」の棟札があり室町末期の建築様式をとどめている。 貞和3年(北朝、光明帝)銘の自然石板碑が4基残っている。 浜飯塚の山平重兵衛・児玉丑松・門間吉十郎の3名が元禄2年5月17日宵に漁へ出かけ、水面10間四方に火炎があがる水底に朽ち木を発見、帰宅後の暁に児玉丑松は、夢枕に現われ給うた天照皇大神の神語に目を覚まし、18日早朝潟沖へ舟を出し魚網で、9寸程の朽ち木を引き上げ神像(千手観音)を饌玉を以て報賽したという。 これにより産土神として村人が崇拝した。 |
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