前へ | 八幡神社 はちまんじんじゃ |
古伝承によれば源義家将軍寛治5年、後三年の役の金沢攻めの時、西村という所に多数の軍兵を率いて一夜宿った。
その時猿田の武藤伊賀守に兵糧を乞い求めたところ里正である伊賀は家より白米を献じた。 武藤家の上祖伊賀守、義家将軍の一夜宿った跡を社地と定めて一宿山として八幡大神をまつり、又将軍の兜の神宿に頂いている1寸5分の黄金の神像を載きこの社に深く秘蔵し、八幡宮と申してお祀りした。 この神にまつわる旧跡は、ところどころに残り、義家将軍の矢を掛けて置いたところが、淀川と中淀川との境にあり矢懸野という。 本社の北、義家将軍の御旗を立てた山に白旗明神をまつる縨懸野という所があり、西村の内に母衣社があった。 これは義家将軍の保衣を「うづめ」たところに社を建ておまつりしたところである。 又本社の北にあたるところに、御手洗所がありその上に楓の木と思われる大木がある。 この木は義家将軍の御杖をさしたのに根がつき生え繁ったもので逆さ木といわれている。 本神社は慶長の年中より渋江政光大夫から米1石を祭事に献じられていた。 神社は永禄年中に焼失したが復旧し、その後もたびたび修復し、現社殿は文政12年に改築した。 明治6年神社改正のとき村社に列せられた。 明治44年6月1日熊野神社外九社を合併した。 |
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