前へ | 仁別八幡神社 にべつはちまんじんじゃ |
創建年代不詳なるも、往昔後三年の役の戦いで、源氏は安倍氏を打倒したが、その残党が此の地で余生を送るため住み着き、日増しに勢力を現しては大将出羽守師清の軍門に降らなかった。
やむなく武力によるほかないと決戦を挑んだ。 三手に分かれて陣地を築き、その中の一つを妙見山の霊地に築いた。 敵の第一陣地は敗北したが、第二陣地では頑強に抵抗、大将出羽守師清早やこの一戦にて軍利あらずと討死もやむなしと決意し、自ら南天の鞍を滝壺に投げ捨てた。 この時天地一変し雷雨を伴い太平山の霊峰より神が現われ善は勝るにしかずと大声一喝、忽ちにして軍利この方にあっては敵は皆亡んだ。 よって大将出羽守師清、この度の大勝は妙見菩薩の思し召しその威力による事多いと、この霊地を妙見菩薩神社と命名し戦勝の神として崇敬されていたが、妙見山中腹に安置しても辺鄙のため、現在地に移転した。 又松原補陀寺より分譲されたとも言われるが記録がない。 昭和59年8月1日付で、神社本庁の承認を得て、仁別神社を仁別八幡神社と社名変更した。 |
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