前へ | 羽黒神社 はぐろじんじゃ |
天平年中、行基尊師の開基という。
当時は、長岡字笹島俗称丸門に鎮座し、羽黒山伝来寺と称していた。 延略12年癸酉年東夷蜂起、田村将軍征討の際勝利を得、その神威に感じ社宇を改修する。 仁寿2年、僧丹仁(慈覚大師)奥州を巡歴し、当社に至り旧廃を補う。 永承5年源頼義、安倍頼時退治の時当社を造営、更に康平5年壬寅年、同将軍安倍貞任征伐の時戦勝を祈願し、社殿の修理をする。 応永3年乙亥年4月朔、湊安東太郎安信、康季、鹿季兵を師えて当社に祈願し大いに軍功あり。 これ神の擁護であると再び造営を加えられた古社であり、その記録は、時の大竜寺に保存されていたが、前後2回の火災に罹り悉く焼失してしまう。 しかし記録は、秋田県史に録されているので、これを証することができるのである。 天正8年庚辰年、秋田城之介安東愛季修復神殿を寄付する。 その後湊九郎友季合戦の時、兵火の為堂宇焼失す。 慶長7年前記丸門に鎮座していたが、社の上方に火葬場があり、汚穢であるという故から現在地に遷座せらる。 宝暦8年戌寅年、時の別当大竜院、秋田山本2郡に配札の免許を得、現在の神社を再建して今日に至る。 明治37年9月27日6反2畝15歩3合境内編入許可。 明治41年7月15日字前谷地村社神明社及び境内社を合併し、村社の格を得る。 明治44年5月11日字熊野田村社神明社、字同無格社熊野神社を合併した。 字長岡村社三輪神社、明治45年5月20日字外脇無格社神明社を合併す。 大正3年12月25日 神饌幣帛料供進神社に指定される。 |
トップページへ |