勧請年代は不明なるも口承によれば奥洲藤原氏の4代目当主泰衡が源頼朝に追われて逃げ延びる途中、つかれ果て、兜を脱ぎ捨てたといわれ、勧請は源頼朝が奥洲征伐を行った文治5年以降と推定されている。
神社の拝殿は昭和30年に国道7号線のバイパス工事に伴って米代川付近80m離れた現在地に移転建立されたものである。
同神社の古文書によれば、寛政6年に8代藩主佐竹義和公がこの地を訪れた際、この兜をお見せしたところ殊の外御気に入り、一度久保田城に召し上げられその代わりとして毎年米3石を祭事料として給付される。
しかし御神体である兜が無くては地区民が困ると思召され、その代わりとして「兜宮」の直筆の掛軸を下付され宝物として毎年例祭の当日のみ幣殿にかける事にしているが、兜は明治40年代に返却された。
又明治44年兜神社を訪れた甲冑鑑定の権威者山上八郎氏(東京在)は、当時として保存もよく出羽国第一と折紙をつけられたが、御神体という事で、極秘扱いにされた。
御神体の兜はこうした由来を持つが昭和45年発生の盗難事件をきっかけに国の重要文化財クラスの逸品として一躍有名になった。
特別建物→御假屋(オカリヤ) 明治天皇東北巡幸の時米代川を船でわたるために使用したもの
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