豊岡姫命は、大物忌命とは同体にして又の名は豊於賀比売命と称え奉る。
豊岡とは、岡と宇賀の転語であろうか。
往時天平宝宇の頃始めて宮柱を建て蚶方(今は象潟という)の鎮守にして、蚶方神社と崇め奉っていたのを、後象潟の神社と称え奉る。
能因法師の歌に「天に坐す豊岡姫に言問はん幾世になりぬ蚶方の神」とあるのを見ても明らかである。
大神は神饗維織工芸の神に坐しまして、古は壮巌なる四時の大祭が行われたが、由利十二士、党を争い屡々鳥有に罹り、大いに荒廃叢祠の姿となってしまう。
しかし六郷家の領地となるや藩主政泰巡遊の折侍臣に命じて大祭に復さしめ無窮の記念として大いなる碑を建てられたのは実に寛政の8年であった。
八津島大権現縁記に曰く
『千維羽後飽海郡油利庄八津島大権現者、一宮大物神是也、鳥海山大権現則大己貴命也、
當人皇三十九代天智御宇出現以下人皇五十一代平城天皇御宇於諸国起悪鬼田村利人将軍以勅宣討鬼魅依之願成於
八津島建一社称大物忌大明神後又改号八津島大権現又吹浦両所権現者謂八津島云々』とある。
大神の御神徳を尊び奉る人々日に月に弥増し、遠い更科の国より大神の分霊を請願奉らんと欲する信徒もあった。
昭和3年村社に列せらる。
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