慶安2年及び文政4年の祠官宅火災により、詳しいことは不明であるが、神社書上帳によれば、大同二年征夷大将軍坂上田村麻呂東征の砌り、ご祭神を勧請創祀せるお社と伝えられる。
のち鎮守府将軍清原武則が山上峯近く(市指定史跡天狗館跡地)に御堂を建立、爾来源義家公、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶等々武将武人をはじめ、近隣郷中の人々の崇敬篤く、早くから心願成就、開運授福の神としてその名が知られ、出羽国平鹿郡山川の荘の総守護社と崇められる。
その後、当地を支配せる領主小野寺氏が殊の他崇敬篤く、横手城主横手佐渡守御社殿を造営(現社殿)、又小野寺遠江守はじめ、代々の城主奉行を遣わして社殿の修復に当られ神田神宝類を数々寄進されている。
佐竹公秋田に国替え後は、藩主義隆公正保4年御社参、当高5石を社領に付しおかれ(明治4年まで)同義敦公明和6年に御社参、斎料金百疋を御社納くだされておる。
嘉永7年、雄・平・仙三郡に及ぶ崇敬者の寄付によって拝殿改築、明治5年新社格制度により郷社に列せられたが、一区中二社の必要なき趣きにより、同6年村社となる。
同42年3月19日神饌幣帛料供進神社に指定された。
明治43年7月27日、同9月21日、同10月6日付秋田県知事の許可を受け、山内村小松川、同李原、同南郷、同三又、同黒沢、同土渕、横手市大沢地区の村社及び無格社併せて十四社を同年11月24日付合併、盛大に合祀祭斎行。
現在に至る。
|